シュレディンガーの猫

箱を開けるまでその生死が分からない

不確定性原理




其れを聴いた瞬間、パンドラの箱みたいだ、と思った。




分厚い本を捲りながら、ペットボトルを手探りで掴んだ。
その間視線は本から外さぬまま、片手で器用にキャップを捻り、液体を飲み込む。
渇いた喉が潤ったのを感じ、読書を再開しようと目を伏せた時、
可愛らしいメロディーが部屋に響いた。
本に向けられていた視線を時計へと移す。
音だけで分かるのだが、もはや習慣となってしまっている。

12時00分

壁に掛けられたアナログの時計が秒針を刻む度に、気分が落ちていくのが感じられた。
丁度昼時だが、ご飯を作ろうという気にすらなれない。
椅子から立ち上がり、冷蔵庫からコンビニのサンドイッチを取り出すとソファへと移動した。
テレビを付け、パンに齧りつく。
食に対してあまり意識を持っていない所為か、何の味もしなかった。
だが、生活のリズムが狂っていないのは不本意ながらも、
壁に掛けてある時計のおかげだろう。
10歳の誕生日に両親から貰った時計。
設定された時間にランダムでメロディーが鳴る其れは
、一目惚れして頼み倒して拝み倒してやっと誕生日に手に入れた。
思い出したら口の中に苦いものが広がる様な感覚に陥る。
食べるのも億劫になって、そのままソファに倒れこんで気付く。


「あ、本持って来れば良かった」


たった数歩歩けば良いだけなのだが、面倒臭い。
仕方なくテレビへと視線を向けたら丁度ニュースがやっていた。
強盗殺人――
フリップに出た赤紫の太文字。
其れに惹かれてしまって、思わずニュースを見入る。
残酷極まりない殺人。しかもまだ犯人は捕まっていないと言う。
だが最近はこんな事件もしょっちゅうで今更何とも感じなかった。

次に放送されたのは未成年の犯した殺人事件の観照。
評論家のような人達が、ニュースキャスターと共に話し合いをしているのが耳に入ってきた。


――何故最近の若者は感情に任せ相手を傷つけてしまうのか…――


聞こえた言葉にはぁ、と溜め息を付く。
何の経験も無しによくそんな事が言えたものだな。
鼻で笑って、テレビを消す。
あの"一般論"が最近気になって仕方が無い。
闇雲に反対したい訳ではない。そんな子供じみた真似はしない。
唯疑問に思うのだ。
皆が言っている"普通"は何を基準に生まれたモノなのか。
そして何を境目に"普通では無い"のか。


「馬鹿みたい」


考えたって何の利益にもならない。
そう結論付けると重い腰を上げ、ダイニングテーブルに置いてある愛読書に手を伸ばした。




21:16
左手首に付けてある時計を見つめ、青年は大きく息を付いた。
やってらんない、こんな仕事。
本気で辞めようかと考えながら、手の中に有る物を握り締め、
黒いパーカーを翻すと彼は夜道に消えた。
空には満月。此れが上がりきる前に目的地に着かなくてはいけない。
時間が指定された"仕事"は嫌いだ。自分のペースが乱れてしまうから。
だが、上に命令されてしまうと断ることも出来ない。


「つまんねえな」


22時37分
夕食時の皿を洗いながら欠伸を噛み殺す。
11時近くなってくると眠くて仕方が無い今日此の頃。
まだ18だ。この歳の"普通"は早寝早起きよりも遅寝遅起じゃないのか?
此処でふと思う、また"普通"と云う言葉が出てきてしまった。


「う〜ん…」


脹脛を片足で器用に掻く。恐らく蚊に刺されたのだろう。兎に角痒い。


「ムヒ有ったかな〜?もう直ぐ蚊の季節終わるから買ってないような気がする…」


皿を洗い終わり、戸棚に仕舞うと居間に有る救急箱を探しに行った。
学校にも行っていないし、第一外にも病院に行く以外出ないので怪我をする事なんてまず無い。
怪我と云えば偶に深爪してしまう位だ。
小さな救急箱を開け、塗り薬を取り出す。
患部に塗って放っておくと痒みが引いた。


「おし、今日も終わり」


後は寝るだけ。
寝る…、そう言えば睡眠薬をまだ飲んでいない。
キッチンに戻り、ダイニングテーブルの上に有る薬を取り、3錠水で流し込む。
飲まずに眠れるかと聞かれれば眠れる。
但し、次の日は吐き気が酷くて一日動けなくなるから、
あえて苦しむ様な事はしない。

火の元を確認していると、居間から硝子が割れるような音が響く。
驚いて身を硬くし、思考を巡らせた。

おかしい、この家には今自分一人しか居ない。大体あんな大きな音は…、

固唾を飲み込み、ゆっくりと居間へ向かう。


「っ、硝子…」


最初に視界に飛び込んできたのは、割れたであろう窓の破片。
嫌な感じがして顔を上げればぎらつく両の眼と出会う。
窓を割り、其処から手を入れ内側にある鍵を開けようとする男。
ヒュッと喉が不快な音を立てて凍りついた。恐怖で身体が凍りつき、全身が震える。
不意に全身に腹に衝撃を感じて一歩後ずさった。
何だと思って触れてみたら掌が真っ赤に染まり、喉にせり上がってくる鉄臭い液体。
身体が命ずるまま吐き出せば鮮やかな赤がカーペットを汚した。
初めて銃で撃たれたと分かったのは、膝を着いた時。


「ぁ……、」


カチン、
窓の鍵が解かれた音を聞いて一気に血の気が引き、其れと共に意識も灼熱の痛みに流され、
途絶えた。






――知らなければ良かったのよ。貴女は気付いてしまった。
  もう日常には戻れないわ――










Anniversary of one's death